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最大の障害は身内だった! [風景画]

 暮れの忙しい時分にひょこり顔を出した義父の前社長が「お前に言っておくことがある。」と話を切り出した。
 「来年は消費税率が引き上げになり、景気がもっと悪くなるぞ。」
 社長を引き継いだ私に、経営上の指南でもするのかと私は身構えた。
 「うちの会社もどうなるか判らんから、(社有の)賃貸駐車場に自分の第一抵当権を設定する。会社の印鑑証明とお前の印鑑証明をとっとけ。会社が潰れたら、自分への未払い金や借り入れ金が回収できなくなる。」 私は耳を疑った。賃貸駐車場の土地の購入時に国民金融公庫から融資を受けたのだが、抵当権を設定しなかったことをいいことに、自分の担保にしようとしている。当然認めることはできない。
 「そんなことできるわけないやろ。」
 「会社が潰れたら自分には何も残らん。」「毎月10万円づつ借入金を返済してるやろ。」
 「全部返すに何年かかると思っとるんか。抵当権を認めんのなら、裁判を起こす。」
 「自分の会社を相手に裁判して、どうするの。」
 前社長が私腹を肥やすために生じた借金の返済を後継者が督促されるという、まことに理不尽な問題を抱えて年を越すことになった。
終着駅.jpg
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小さな会社経営者の大きな背任行為 [風景画]

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 大王製紙前会長が公私混同の振る舞いにより、特別背任容疑で逮捕された。会社のお金を私的に使い込んだ容疑だが、庶民の感覚とかけ離れた横領金額の巨額さに驚いた。
 それに比べると、私の知っている会社経営者の不正など取るに足らないことかもしれない。半世紀にわたってコツコツと私腹を肥やしてきた彼の方法は、反社会的だが小さな会社ではよくあることかもしれない。その方法とは…。

 その経営者の青年時代は親から引き継いだ事業を拡大したいという意欲に燃えていた。銀行から融資を受けて土地を買い、当時としては大規模な社屋を新築した。うまい具合に高度経済成長の波に乗ることができ、会社の売上は飛躍的に伸び、社員も増えていった。銀行からの借入金の返済も順調だった。

 しかし景気の良い会社は税務署に目をつけられる。会社の税務調査が入り、借入金の返済金は会社の利益とみなされ、追徴税を収めねばならなくなった。早く借金を返すことを仕事の励みにしていた若い経営者はこの時悟った。 「まともに税金を払う奴は馬鹿だ。」
 
 彼は自分と共同経営者の兄の給料を半世紀前の当時の小企業としては不相応な50万円として、銀行への返済金は自分たちの給料から立て替えるという方法を取った。個人の所得税の増加分は、高い税率の法人税を払うよりも大きな節税効果があった。

 銀行からの借入金が減るに連れて、経営者からの借入金は増え続け、会社の健全性は蝕まれていった。 会社に貸した?金に対して帳簿上の利息もつけた。銀行からの借入金の返済が完了しても、自らの給料を下げることはなかった。

 彼は給料以外に会社から収入を得る方法を見つけた。中小企業の福利厚生の一環として創設された「特定退職金制度」の悪用だ。この制度は、社員名義で退職金を商工会議所に毎月積み立てることにより、社員の退職時の会社の負担を減らすとともに、会社の業績に関係なく社員に退職金が支払われることで、社員への福利に寄与するものだ。積み立て金は、会計上の費用とみなされ、非課税のうえに、高い金利がついた。

 彼は社員たちにはこの制度のことを知らせず、社員の名前で退職積み立て金を商工会にプールしていった。さらに架空の社員の口座をいくつも作った。
 お金が必要になれば、社員が退職したことにして、架空の通帳に退職金を振り込ませ、そこから現金を引き出した。銀行口座の開設が容易にならなくなると、親戚の名前を借りて、「特退制」を悪用し続けた。
 
 彼の個人資産は増え続けた。余裕資金で趣味の骨董を買い集める一方、不動産も手がけ始めた。
 ある賃貸マンションが建物ごと競売に出された時は、父親や兄弟から資金を集め、それを競り落とした。会社の信用をバックに銀行から融資を受け、マンションの月々の家賃収入からその返済を行った。個人所有の賃貸マンションの保守管理に自分の会社を利用した。銀行融資の返済が終わってしばらくして父親が老衰で死去すると、マンションを売却してお金に換えた。初期投資が少なかっただけに利益は大きかった。

 健全さを失った自分の会社は衰退の一方で、帳面上の会社への貸し付け金を回収するどころではなかった。
 彼は会社の倉庫を返済金の一部として自分の名義に変えた。会社としては昔の簿価で借入金を相殺されたことになり、大きな損失となった。彼は自らが育てた会社をどうしようと彼の勝手だと考えた。
 彼のお金への執着は今後も度を増すことだろう。見習おうとは思わないが、マネービルの手腕は見事だ。
 しかし、決して真似をしてはいけない。
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ダッジ・チャレンジャー1970年型 [車の絵]

 40年くらい前になるが、私が学生の頃に封切された映画「バニシング・ポイント」は主演男優よりも爆走するダッジ・チャレンジャーの方が私には印象に残った。2ドア・ハードトップクーペの外観に派手さはないが、どこか魅力的な車だった。
 数年前、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマン共演の「最高の人生の見つけ方」を妻と観に行った。   演技もストーリーも文句なしの良い映画だった。主演の二人が懐かしいダッジ・チャレンジャーとマスタングに乗って絡む場面は、予想もしなかった名車の登場に思わず興奮した。この二台は中年男性の憧れの車だから選ばれるべくして選ばれたのだと納得した。
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子供の頃のこだわり [人物画]

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私は幼い頃、数字の「五」にこだわっていた。銭湯でからだを洗う際は、石鹸でタオルの上に数字の「五」を立体的に形作るのが儀式だった。何らかの数を選ばねばならない時は、迷わず「5」を選んだ。それは両親と姉と弟と私の五人家族の幸せな生活がいつまでも続くことを祈ってのものだった。小学校に上がると、私は家族との死別を恐れるようになっていた。周りが寝静まっている中で、父や母がいつか死ぬのではと不安になり、布団の中で嗚咽していた。 それが心の準備になったからか、小六のときに父が病死した時、私は悲しんでも取り乱すことはなかった。葬儀のさなか、小四の弟が激しく泣いて周囲の涙を誘っていたことや、弔問客の中に私のクラスの担任の先生と学級委員の男女が来ていたこと、さらに友人代表で選ばれたと思われる悪友が、私の畏まった姿を見て笑いを堪えていたこと、など今でもよく覚えている。
 「人はいつかは死ぬ」という無常感がこの頃より私に焼きついた。
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46年前の小学校教室イメージ [風景画]

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私は小6の時、父親と死別した。享年41歳の早死にだった。海軍上がりの父は躾に厳しく、三人兄弟のまん中の私は父から一番叩かれていたが、厳格ながら優しくユーモアのある父が好きだった。
私が小3の頃、父は糖尿病が悪化して数ヶ月入院していた。体が大きく、頑健な父が死ぬことなど考えられず、二度目の入院が眼底出血を起こした深刻な状態であったにもかかわらず、私たち兄弟は普段どおりに登校していた。父の急変の知らせで授業が中断し、私は、迎えに来た叔父の車で病院へ向かった。
このあと私の人生で最初のつらい試練が待っていた。
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スズキRM250 [バイクの絵]

 私のバイクデビューは高1の夏だった。叔母のダンナが中古の原チャリを譲ってくれたのを、無免許で乗り回した。クラッチのあるバイクだったが、中学の頃からトラックの運転を覚えていたので、すぐに乗りこなせた。
 まるで自転車に乗るような気軽さで、バイクに興味を持つ同級生たちにもバイクの面白さを広めた。
 しかし、ある日法の裁きを受ける日が来た。
 ライトが切れて無灯火のバイクの後ろに、二つ年下の弟を乗せて、夜の町を静かに流していたとき、パトカーと遭遇して捕まってしまった。当時、未成年者に罰金はなかったが、家庭裁判所に出頭しなければならなかった。
 私は、一応、地元の進学校に通っていたのだが、バイクの免許をとる不届き者はいないと思ってたのかどうか、高校は免許取得が禁止されてなかった。16歳になったこともあり、学校をさぼって原付の免許を取りに行った。
 無免許運転の後始末で、後日家裁に呼ばれたとき、堂々と自分のバイクに乗って行った。
 さんざん説教されたあとで、裁判官に今日はどうやって来たのか聞かれたので、免許を取得したのでバイクに乗ってきたと誇らしげに答えた。「そんなばかな。取れるわけがない。免許証を見せなさい。」
 真新しい免許証を手にすると、裁判官は真っ赤に怒って、どこかに電話をかけた。おそらく免許試験場だったのだろう。受話器の向こうの人間を激しく叱責していた。私の免許は取り上げられなかったが、高1の3学期に自動二輪の免許を取得しようと、運転免許試験場に望んだ時、訳もなく何度も落とされ、5回目のチャレンジで、やっと合格するjことができた。きっとそれが無免許運転の代償だったのだろう。
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ヤマハYZR500ウェイン・レイニー 1991年 [バイクの絵]

名古屋に暮らす長男は、最近、浜松に出張することが多いという。彼も私に劣らずバイク好きで、ゼルビス、CBR600R、XR230を乗り継いできたが、今は幼い二人の子供と愛妻のために、バイクを降りている。それでも、バイクへの思いが絶ちがたいようで、浜松に行ったおりには、ヤマハのバイクミュージアムを堪能しているようだ。一度も行ったことがない私は息子が羨ましい。
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フォード・デュース1932年型 [車の絵]

1973年にジョージ・ルーカス監督、脚本の「アメリカン・グラフティ」が封切された。当時大学生の私はこの映画を観ながら、上京した頃の自分や友人たちが登場人物と重なって見えて感傷的になった。個々に巣立つ日が近づくと、未知の生活への期待や不安から心が落ち着かなかった。夜中に友人の家に集まっては取り止めのない話をしたり、ドライブをしたり、未成年ながらちょっぴりお酒を飲んだりした。可能性を秘めた原石だった青年たちはそれぞれが選択した人生を歩んで今は中年になっている。未来の分岐点になったあの頃に戻ることはできないが、私は平凡な現在の自分に満足している。
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FXはやはり危険?(1990年賀状) [人物画]

しばらく音沙汰がなかった次男に妻が電話をかけた。元気な様子に安心して、私に受話器を渡した。「声が聞きたいやろ。」
 次男のFX投資がずっと気がかりだった。以前は無関心だったユーロのレートを毎日確かめていた。
 「その後FXの方はどうね。」
どんな答えが返ってくるか少し緊張した。
一時は30万円の元手が360万円まで増えたが、中国筋によるユーロの連続した買い上げで、損切りもままならず、結局70万円まで減ってしまったという。
損はしていないというが、お金の価値観が麻痺しそうだ。
大損しなくて幸いだった。FXをやめて株式の現物に手堅く投資をすることを次男にすすめたが聞き入れてくれるだろうか。                                                           1990年賀状.jpg
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ダイハツ・コペン [車の絵]

2002年にダイハツから軽の二人乗りロードスターのコペンが発売された。電動油圧ポンプでルーフが開閉するアクティヴトップ(クーペカブリオレ)仕様が採用されていることに驚いた。4気筒DOHCエンジンを搭載した高価格のマニア向け軽乗用車の生産が長続きするとは思えなかった。耐用年数を考えると価格とペイするのか疑問だったが、10年たった今、街中でも郊外でもコペンをよく見かけるようになった。コペンファンが確実に増えているのだろう。
車名の由来を、私はコッペパンのような愛らしい姿から採ったのだろうかと勝手に想像していたが、調べてみると  Compact  OPEN から来ていた。一度はオーナーになってみたい車だ。
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